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法話
Shorinji Kempo

 2021-11-6 法話 「自信と勇気と行動力」

 2021-11-6 法話 「自信と勇気と行動力」

対象:年長、小学生、中学生、一般

 少林寺拳法の目的は、自信と勇気と行動力を持った人間を育てる事だと副読本の中に書いてあります。昇級試験にも出てきていましたね。

「自信と勇気と行動力」の最初にある「自信」を身につけるには、どうしたら良いのでしょうか?

「自信」を身につけるには、小さなチャレンジを行い、その小さな成功体験が大切なのではないかと思います。「帯を自分で結べるようになった」でも良いし「昇級試験に合格した」「この技ができた」でも良いと思います。小さな成功体験の繰り返しと、「頑張ったね」「良かったね」と言ってもらえる承認体験が重要なのだと思います。

 この小さな自信があると、初めての事でも挑戦してみようと勇気が湧いてきます。この小さな勇気があると行動に移すことも出来ます。例え、行動した結果が失敗しても、もう一度チャレンジしてみようとなります。または、別の方法を試してみようと切り替えることができます。

 この話をしたのは、練習前に「ほら、帯を自分で結んできたよ」見せに来てくれたからです。「おう、すばらしい」「やったね」

 小さな成功体験は何でも良いと思うのですが、せっかく少林寺拳法を修業しているのだから少林寺拳法を通して自信を持ってもらいたいと思います。

——————-以下は補足です——————

 自分を信じると書いて「自信」といいますが、「自信」とは何でしょうか?

「自信」は、「自己肯定感」と言い換えることができるかもしれません。

「自分はできるんだ」と考えられるかどうか?

 チャレンジして成功できれば一番良いのですが、例え失敗しても「自分は大丈夫」「もう一度チャレンジすれば良い」と考えられるか?または、「他の可能性がある」と考えられるか?なのでは無いでしょうか?

「自信」を身につけるには、小さなチャレンジを行い、その小さな成功体験が大切なのではないかと思います。小さな成功体験の繰り返しと、身近な人から褒められた承認体験が重要なのだと思います。

「自信」が無いと他人や社会から必要とされていないと感じ、他人や社会から疎外されていると感じてしまいます。これが内向きに強く働いてしまうと、「鬱」や「閉じこもり」となってしまい、周りからの情報・刺激に反応できなくなったり、遮断してしまったりするのだと思います。また、自信が無いけどプライドは傷つけられたくないと感じると、外向きに攻撃性が強く働いて、切れやすくなったり、他人を傷つけたり、犯罪に走ったりするのだと思います。これも周りからの情報・刺激に過剰反応しているのだと思います。

 もしかしたら、実力が無いのに自信過剰の人も、実は「自信」が無いので過剰に認められたいと思っていて、知らない間に虚勢を張っているのでしょうか?

「小さな自信」が沢山貯まっている人は、「心的エネルギー」が満ちてる人だと思います。

 「心的エネルギー」満ちているからこそ、他人にも良い影響を与えることも出来るのだと思います。本当の意味での「自信」を持って、他人も良い影響を与えれる人が、「自信と勇気と行動力を持った人間」と言えるのでは無いでしょうか。

2021-10-23 相談「頑張りすぎない」

2021-10-23 相談「頑張りすぎない」

「仕事で ”自分がやらなければ!!” と頑張りすぎて体調を崩してしまった」

「母が体調を崩して、その介護が大変、父も気弱になって自分を頼りにしてきて」

 2件続けて自分自身を自分で追い詰めてしまって苦しんでいるという話しを聞きました。

 相談にのると言うより、話しを傾聴した。と行った方が正しいかもしれません。的確なアドバイスは出来ないかもしれませんが、自分だったらこうする。こう対処するという話しをしました。

それを少し文章にしてみました。(上手くまとめられたかは、自信がありませんが)

コツは「頑張りすぎない」ことだと思います。

 自分には、その時、その場での「役割」があるだろうと思います。その「役割」が何であるかを考えて、その「役割」以上の事は、他の人に任せるのが良いと思います。総て自分でやってしまおうと考えないで、「役割」の範疇でベストを尽くせば良いと思います。そして、場所や立場が変化したら、その「役割」も変わると思います。あの場では、ここまでしていたから、こちらでもこれをしなければならないと考えると辛くなります。

 私の場合は、職場での立場、道院での立場、家庭での役割、何々の役職での立場など、その都度、仮面を被るようなつもりで、この「役割」の時は、その「役割」として発言したり行動したりするようにしています。他から何か言われたとしても、言われているのは、この「役割」に対して言われているのだな解釈し、中の自分自身に向けられた物では無いと考えて、自分を守るようにしています。言ってみれば「役割」は自分を守るバリアみたいな物です。

 オバーワーク気味な時も、この「役割」に求められているのは、ここまでで良しとして、次にかかります。一つの仕事にこだわりすぎると、次々と実行することが出来なくなってしまうからです。もう一つは、この仕事は、他に任せられると判断したら任せてしまう。自分の所に留めておかず、パスを出してしまいます。この時も「役割」を意識します。この「役割」の時には、これは避けてはいけない、これは自分でしなくてもよい、などと考えます。総てを背負い込む必要はありません。

2021-10-21 法話「昇級・昇格考試で考試員は何を評定している?」

2021-10-21 法話「昇級・昇格考試で考試員は何を評定している?」

対象:年長、小学生、中学生、一般

 今度の土曜日に少年4級の昇級試験がありますね!

 今日は、昇級試験に向けての練習を中心に行いますので、皆さんもお付き合いお願いします。

 さて、昇級・昇格考試の時に考試の先生は、何を見ているのでしょうか?

 一つは、中学校の中間、期末テストの様に、習った学科をどれだけ覚えているかを計るために筆記試験(書く試験)を行っていますね。

 二つ目は、習った技がどれだけ出来るかを技術試験で見ていますね。

筆記試験と技術試験で、どれだけ覚えているか?どれだけ技が出来るか?を見ていますが、実はもう一つ見ている物があります。

 三つ目は、拳士としてふさわしいか?を見ています。少年4級なら4級拳士としてふさわしいか?初段なら初段としてふさわしいか?二段、三段となっても同じです。

 試験を受けに来た拳士の立ち振る舞いや、言葉遣い、受験に対しての取り組み姿勢、真剣度など様々な角度から判断しています。拳士としてふさわしく無いと判断したら、学科や技術が良くても注意されるかもしれません。

 これらは、1日や2日で何とかなる物ではありません。日頃の修練をどの様に取り組んでいるか?が重要となります。

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評定:物事の成績・質・価値・等級などを決定すること、または決定した成績のことである。 評価と意味合いが似ているが、評定は「様々な評価を総合して最終的に定めた値踏み」というニュアンスがある。

2021-10-16 瞑想できた?

2021-10-16 瞑想できた?

先日火曜日は、二人だけの修練でした。

基本練習をして、鎮魂行を行った際、少し長めに座禅を組んでみました。

長めといっても7分程度ですが、終わった後に感想を聞いてみました。

「座っていると、グワーンと回っている感覚がある」と

自分を中心に空間が回っている感覚なのだそうです。

 

以下は自分の感覚を書いていこうと思います。

私の場合は、座禅を組んで姿勢を正すと、自然に調息に意識が向きます。

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調息法は、背筋を伸ばし、目を軽く閉じる(瞑目)

鼻呼吸を原則とする 1吸気:静かに長く深く 2漏気:フムと少しもらす 3充気:胸腹部に充満 4呼吸:ゆっくりと細く長く吐く 5残気:三分残して止める

吸気では「精気、生命力」が体内に入ることを意識する

呼気では「自分の気力・精神力」を体中にみなぎらせ発するように意識する

調息は静止した状態ばかりではなく、技を行うなど動いている状態でも消息できることを目指す

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息を吸うことには、あまり意識しておらず、ゆっくり長く吐くことを意識しています。

段々長くなり30秒は吐いているような気がします。

ゆっくり呼吸していると、次に自分の周りの空間に意識が向いていきます。

道場内の様子を探るような感じでしょうか?次に道場の外はどうなっているか?

今の時期なら、「虫の音が聞こえるな」とか「風が吹いているな」など

次は、再び自分の体の中のことに意識が向きます。

「今日は腰が調子良いぞ」「頭の位置は?」「手の組み方はどうか?」など

集中していくと、内に意識が向いたときは、より細かく深く体中を探索する感じとなり、外に意識が向いたときは、より遠くに宇宙にまで意識を飛ばす感じが理想でしょうか。

本当に集中すると、5分ぐらい経過したかなと思って目を開くと、20分ぐらい経っていたなどということもありました。

瞑想の形は人それぞれで、深さも様々な様な気がします。

2021-10-5 法話 「勘について」

2021-10-5 法話 「勘について」

対象:一般

 剛法の修練中に、「突きが来るか?蹴りが来るか?右か?左か? なかなか分からないんだよね」と話題が上がりました。

それに対して「勘が大事なんだよ」と声がありました。

「勘と言われても、どうやったら身につくの?」

・・・・

 「勘」は、漠然としたものでは無く、経験の積み重ねによって身についてきます。

 何となく物事を見ているだけでは、「勘」は働きません。物事を意識して見ることによって、少しづつ身についてくるものです。

 最近は、AIが様々な所に取り入れられていますが、AIに学習させることで的確に判断が出来るようになってきます。AIに何万回、何十万回もの「問」と「答え」を入力して、その中から共通事項などを学習させ、今までにない新しい「問」を入力しても、自動的に回答してくれる様になってきます。回答の精度を上げるには、更に気の遠くなるような「問」と「答え」を入力して学習させていきます。AIがどの様な道筋で答えを導き出しているかは、AIを設計した者も分からないそうです。

 「勘」も同じ様に、何故、その様に判断したのかを正確に答えることは、なかなか難しいのではないでしょうか?ただ、言えることは、意識して物事を見て、判断した知識の積み重ねが「第六感」として、いざという時に「勘」が働くのではないでしょうか?

 仕事でも何でも、新人には、「勘」は働きようはありません。それは「当てずっぽう」と言われるだけです。段々経験を積んでくると、「あの人の勘は当たるぞ」などと言われるようになったりしますが、それは、その人の経験と知識の積み重ねの結果と言えるでしょう。

 意識して行うか?何となく過ごすかでは、時間が経過すると、大きな違いになって現れてきます。

 2021-9-16 法話 「ちょぴりの我慢」

 2021-9-16 法話 「ちょぴりの我慢」

対象:年長、小学生、中学生、一般

 自分の思い通りにならないことが有ると、嫌ですよね。

これは、子供でも大人でも変わりません。

 思い通りにならないと、イライラしたり、腹が立ったり、がっかりしたり、他人の責任にしたりします。やっぱり嫌ですよね。

 でも、世の中は、自分の思い通りにばかりには、いきません。思い通りになる事の方が少ないかもしれません。

 そんな時は、ちょっぴり我慢する事も必要になります。

 自分の事ばかりを押しつけていると、喧嘩になってしまいますね。その最も激しいのが国と国との戦争ですね。お互いが少しずつ譲り合って、ちょっぴり我慢すれば、戦争も少なくなるかもしれません。

 ものすごく、我慢する必要はありません。ちょぴり我慢する事を身につけるだけでも、随分違います。

 もう一つは、自分の考え方を少し変える方法です。違う見方ができれば、ちょぴりの我慢も必要ないかもしれません。

 少林寺拳法での修行は、この「ちょぴり我慢」と「少し見方を変える」事を身につける練習をしているとも言えます。

 仏教では、難しい言葉で色々と言っていますが、簡単に言ってしまえば、「ちょぴり我慢」と「少し見方を変える」です。

 とっても我慢する必要はありません。ちょぴりの我慢です。

*実際に話したことを要約し、少し修正・加筆してあります。

 

この法話で言っている「ちょぴり我慢」は、「少しだけジッとして先生の話を聞く」「遊ぶのを少し我慢して練習する。勉強する。」などから少し発展して話し始めました。

仏教では、「苦」について  「四諦」「八正道」などの言葉で説明されていたりします。

脳神経学的には、本能の旧脳からの衝動を新脳の前頭葉が抑制(我慢)して衝動をコントロールして、社会適応する行動を行っています。なので、前頭葉が未発達の子供は、我慢が利かないのです。

また、前頭葉で考えた事(期待)と現実にズレが生じるとストレスを感じます。これが「苦」

考えの柔軟性が少ないとストレスを感じやすくなってしまう。考えの柔軟性が少ないと、少しの違いでも気になってしまう。

2021-9-9 法話「鎮魂行の主座」

2021-9-9 法話「鎮魂行の主座」

対象:年長、小学生、中学生、一般

 時々、皆さんに交代で鎮魂行の主座をお願いしています。

 これは、黒帯になったら道場以外でも主座をする機会もあるかもしれません。そんな時に恥をかかない為にも少し経験しておいた方が良いかなと思います。私はそれで助かりました。まだ、黒帯になりたての頃、合同練習だったか?何かの時に突然、主座をお願いされたことがあります。戸惑いましたが、道場で何度か経験していたので、緊張しましたが何とかこなすことができました。

 道場で行う時は、失敗してもかまいません。私と一緒にやってもかまいません。失敗したからといって、怒ったことは無いでしょ?

 技の修練中も、技が出来ないからといって、怒ったことは無いでしょ?

 真面目にやらないで、ふざけていたりしたら、叱りますが。

 道場では、どれだけ失敗しても構いません。まあ、失敗するより上手く出来た方が良いですが。

 今度また、お願いするかもしれないので、チャレンジしてみて下さいね。

2021-9-2 学科について

2021-9-2  学科について

今日は、木曜日ですが、いつも土曜日に行っている学科を行います。

青い少林寺拳法少年読本の30、31ページですね

ちょうど「技術と学科の学び方」ですね。

赤い金剛禅少年読本だと31ページにありますね。

さて、ページを開いて下さいね。

体と心を一緒に修行していくのが少林寺拳法ですよね。

そして、少林寺拳法には、「技」と「教え」があり「教育システム」があります。そしてそれをどの段階で学んでいくか書いてある科目表があります。

何級になったら、どの技を習い、学科はどこまで読めば良いか書いてありますね。昇級試験では、その中からどの技が対象となり、学科の範囲も定められて試験を受けますね。

しっかり出来ていれば、合格するし、出来ていなければ不合格になります。他人と比べるのでは無く、自分がどこまで出来ているかが試されます。

学科も「試験の前だけやればいいや」と言うのはいけませんよ。今すぐに学科に書いてあることを分かれとは言いません。

少林寺拳法には、「技」だけでは無く「教え」も有りますので、ゆっくりでも良いから読本に書いてある事が分かるようになれば良いな〜と思います。

黒帯までは、いっぺんには行けないし、まだまだ先かもしれませんが、少しずつクリアーしていきましょう。そろそろ次の級の準備もしていきますかね?

*「法話」とは少し違うのかもしれませんが、土曜日は、私の都合で少年部はお休みとしました。いつも土曜日に行っている「学科」学習を本日実施しました。少年読本を読んで少し解説を加えています。ちょうど「技術と学科の学び方」という章だったので、話したことを書いてみました。

2021-8-28 法話「有言実行」

2021-8-28 法話「有言実行」

対象:年長、小学生、中学生、一般

 「有言実行」の意味を知っていますか?

中学生なら分かりますかね?小学生は難しいかな?

「言葉に出したことを実行に移す」という事ですね。

言葉で、あれこれ言うのは簡単にできますが、それを行動に移すとなると、かなり難しい事が多いです。

「夏休みの宿題を早く終わらせて、後半はゆっくり遊ぶぞ!」と言っていたのに、「夏休みが終わると言うのに宿題が残っていて慌てる」などと言う事は無いですか?

 言葉に出したことを、責任を持ってやり遂げる事は難しいですが、それを実行している人は、他人からは信頼されますね。

 もう一つは、「実行に移す事は、難しいのですが、実行できるように努力しましょ!」と言う意味もあると思います。

 少林寺拳法の拳士は、行動に移せるように修行していきましょうね

*実際に話したことを要約し、少し修正・加筆してあります。

 2021-8-26 法話「パラリンピックのパラの意味は?」

 2021-8-26 法話「パラリンピックのパラの意味は?」

対象:小学生、中学生

 東京パラリンピックが始まりました。

 ここで質問です。パラリンピックのパラってどんな意味なのでしょうか?知っていますか?

パラリンピックは前回の東京オリンピックが開催された57年前にも開催されています。

その時の”パラ”は、パラプレジア(Paraplegia、対麻痺(脊髄損傷等による下半身麻痺))からきているそうです。これにオリンピック(Olympic)を合わせてパラリンピック(Paralympic)となったそうです。

現在は、パラレル (parallel) に意味が変わってきたようです。「パラレルワールド」って聞いたことあるでしょ?「平行、並行、並列」という意味ですね。”もう一つのオリンピック”という事でしょうか?

 オリンピックの選手はスーパーマンみたいだなと思うのですが、パラリンピックの選手も同じく、すごい能力を持っていると思います。お昼に車椅子バスケの試合をテレビで視ましたが、あんなマネはとてもできません。普通は、座った位置からシュートしても届かないと思います。それを軽々と行っていました。

 自分の脚で歩るいたり、走ったり出来ないというマイナスが有りますが、それを上回るプラスの能力を持っているのですね。

 我々も、何か出来なかったとしても、諦めてはいけないのかもしれませんね。チャレンジしてもどうしても出来ない事は有ると思います。しかし、違うアプローチでチャレンジしてみる価値があるかもしれません。「並列」ですから自分には他の能力があるかもしれません。それを教えてくれるのがパラリンピックの意味なのかもしれませんね。

*実際に話したことを要約し、少し修正・加筆してあります。

<追加1>

「障害者」と言う言葉がありますが、「障害」と言うと何も出来ない、能力が無いというマイナスのイメージがあります。しかし、「障害者」は、「障害」も持っているかもしれませんが、他の「能力」も持っています。

「健常者」といわれる者でも、劣る能力と優れている能力を持っていると思います。マイナスの能力ばかりに目がいってしまうと、せっかくの優れた能力も十分に発揮できなくなってしまうように思います。

<追加2>

 57年前の”パラ”の意味は、”対麻痺(下半身麻痺)”から来ているそうですが、57年前は”頸髄損傷の四肢麻痺”や”脳卒中などの片麻痺”の方は、死亡してしまうケースが多かったので、車椅子で社会生活を送っていた方は、対麻痺の方が多かったのだと思います。

 また、第二次世界大戦後20年ほどですし、朝鮮戦争、ベトナム戦争などの負傷兵士の多くも対麻痺だったり、地雷で片足を失った義足の方が多かったのだと思います。

 戦後、負傷兵の社会復帰を目指して、リハビリテーションが発展してきました。そこに、医学の進歩で救命率が上がり、重度の障害を持つ人も多くなってきました。そんな人々の社会復帰や社会参加を目指してパラリンピックが始まりました。