暁(あかつき)、東雲(しののめ)、曙(あけぼの)、鶏旦(けいたん)
法話
Shorinji Kempo
2022-1-1 謹賀新年
2021-12-25 法話 「今年を振り返って」
2021-12-25 法話 「今年を振り返って」
今年最後の修練日です。
皆さんには、大掃除を行ってもらいました。
いつもの作務より少し丁寧に行ってもらいました。
窓も拭いてもらいました。ありがとうございます。
さて、今年のお正月に書き初めで「禍転じて福と成す」と書きました。
去年、今年とコロナ禍に振り回され過ぎていったように思います。
その中でも、この1年で何か新たな変化やチャレンジはあったでしょうか?
昇級試験にチャレンジして昇級した人もいましたね!
私は、この春に「少法師」を拝命しました。
まだ十分にその責を果たせているか?自信はありませんが、頑張って行きたいと思います。
本来なら、七段にも挑戦したかったのですが、職業柄、県外移動は制限されていますから、本山まで受験しに行くことは出来ませんでした。世の中が落ち着いたら、是非、挑戦したいと考えています。
今年一年、ありがとうございました。来年も皆さんと頑張って行きたいと思います。
来年1月6日(木)から修練はスタートです。
1月8日(土)の修練は、1月9日(日)に振り替えて、能登地区の新春法会を行いたいと思います。14時からで他の道院・支部からも、ここ(能登七尾道院)に集まってもらいます。
ぜんざい会食は出来ませんが、初稽古、書き初めもしたいと思っています。
参加賞も準備します。
皆さん、参加して下さいね。
2021-12-16 法話「失敗してもよい場所」
2021-12-16 法話「失敗してもよい場所」
対象:年長、小学生、中学生、一般
失敗するのは、誰でも嫌ですよね!
失敗するより、失敗しない方が、そりゃ、良いに決まっています。
しかし、どんなに失敗したくないと思って、失敗しないように気を付けていたとしても、自分の思い通りにはいかないので、失敗するときは失敗してしまいます。
でも、失敗も悪い事ばかりでは無いかもしれませんよ!
失敗しても、それを経験として活かして、次に繋げていけば行けば良いのです。始めてで、直ぐに出来るようになる人なんてほとんどいません。失敗しながら少しづつ上手くなっていくものだと思います。
そして、その失敗をしても良い場所が、ここ道院です。
先生は、技が出来なかったから、上手くできなかったからといって、「何で失敗したんだ!」などと叱ったことは無いでしょ! ここ(道院)では、どれだけ失敗しても良いのです。失敗したら、「何でなんだろうと?」と先生と一緒に考えれば良いのです。その為のアドバイスをするのが先生の役目です。
失敗しながら、先生と一緒に段々と上手くなっていきましょう!
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〜考察〜
最近感じるのですが、極端に失敗を恐れている人が増えているように思います。
失敗して、他人に怒られることを避けたがるのでしょうか?
挫折感を味わいたくないと思っているのでしょうか?
プライドが傷つくことを恐れているのでしょうか?
一度、失敗すると、それで終わりだと絶望感を感じるのでしょうか?
いずれにしても、一度や二度、失敗しても自分は大丈夫だという自信が少ないのではないかと思います。
成功体験は自信を付けるには良いと思いますが、失敗を乗り越えた体験も自信になるのではないかと思います。問題は、安心して失敗できる場所があるかどうか?なのかもしれません。
2021-12-9 法話 「自分を大切にする」
2021-12-9 法話 「自分を大切にする」
対象:年長、小学生、中学生、一般
前に「やる時は、やる」と、話しをした事があると思います。
今回、修練を頑張って行えて「やる時は、やる」が出来ていたと思います。
一所懸命頑張ると言う事は、「自分を大切にする」事になると思います。
逆に、いい加減に行う事は、「自分を大切にしていない」事になります。
一所懸命頑張ると、その成果は、全部自分に返ってくることになります。
同じ、自分の時間を使って行うならば、一所懸命頑張った方が良くはないですか?
いい加減に行っても良い物は身につかないし、時間だけが経ってしまって、もったいないと思います。
どうか、自分を大切にして下さいね。
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追加
どうせ行うなら、楽しむに越したことはありません。
イヤイヤ行っても楽しく無いですし、精神的にもきつくなってきます。
何かしら楽しみを見つけて取り組むと良いのかもしれません。
例えば、単純作業であっても、「今回は3分でできた。次は10秒短くできるようにしてみよう」とか、「30分で、ここまで片付けてやるぞ」など目標を決めて、楽しむとか?
これも「自分を大切にする」になりませんかね?
心の持ちよう、思考の切り替えで、マイナスをプラスに変換する事ができれば、随分、心を軽くすることが出来るので無いかと思います。
2021-11-25 法話「やる時は、やる 2」
2021-11-25 法話「やる時は、やる 2」
前にも何回か話しをしたことがありますが、
「やる時は、やる!」
出来ていますか?
練習する時は、練習する
作務する時は、作務をする
遊ぶ時は、しっかり遊ぶ
しなければいけない時は、しっかり集中してやる事が大切です。
「やる時は、やる!」は、自分を大切にすることに繋がります。
自分を大切にすると言う事は、自分の可能性を伸ばすことに繋がります。
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追加内容
「やる時は、やる!」と自分が行う事を切り替えることが出来ると言う事は、
自分を律する事が出来ると言う事です。
「自己確立」は、「自立」と「自律」だと考えているのですが、「やる時は、やる!」の行動が、「自律」を習慣として鍛えていくための方法ではないかと思っています。
「まあ、後でも良いか?」「この後で、やる気を出す!」「本気を出せば直ぐ出来るよ!」
などは、なかなか実行に移すことは難しいです。
私も意志が弱いので、「今、この目の前のしなければならないことに集中して直ぐに取りかかるんだ!」と自分に言い聞かせながら重い腰をあげています。
と、言いながら、億劫な事はなかなか始められないのですがね!
2021-11-6 法話 「自信と勇気と行動力」
2021-11-6 法話 「自信と勇気と行動力」
対象:年長、小学生、中学生、一般
少林寺拳法の目的は、自信と勇気と行動力を持った人間を育てる事だと副読本の中に書いてあります。昇級試験にも出てきていましたね。
「自信と勇気と行動力」の最初にある「自信」を身につけるには、どうしたら良いのでしょうか?
「自信」を身につけるには、小さなチャレンジを行い、その小さな成功体験が大切なのではないかと思います。「帯を自分で結べるようになった」でも良いし「昇級試験に合格した」「この技ができた」でも良いと思います。小さな成功体験の繰り返しと、「頑張ったね」「良かったね」と言ってもらえる承認体験が重要なのだと思います。
この小さな自信があると、初めての事でも挑戦してみようと勇気が湧いてきます。この小さな勇気があると行動に移すことも出来ます。例え、行動した結果が失敗しても、もう一度チャレンジしてみようとなります。または、別の方法を試してみようと切り替えることができます。
この話をしたのは、練習前に「ほら、帯を自分で結んできたよ」見せに来てくれたからです。「おう、すばらしい」「やったね」
小さな成功体験は何でも良いと思うのですが、せっかく少林寺拳法を修業しているのだから少林寺拳法を通して自信を持ってもらいたいと思います。
——————-以下は補足です——————
自分を信じると書いて「自信」といいますが、「自信」とは何でしょうか?
「自信」は、「自己肯定感」と言い換えることができるかもしれません。
「自分はできるんだ」と考えられるかどうか?
チャレンジして成功できれば一番良いのですが、例え失敗しても「自分は大丈夫」「もう一度チャレンジすれば良い」と考えられるか?または、「他の可能性がある」と考えられるか?なのでは無いでしょうか?
「自信」を身につけるには、小さなチャレンジを行い、その小さな成功体験が大切なのではないかと思います。小さな成功体験の繰り返しと、身近な人から褒められた承認体験が重要なのだと思います。
「自信」が無いと他人や社会から必要とされていないと感じ、他人や社会から疎外されていると感じてしまいます。これが内向きに強く働いてしまうと、「鬱」や「閉じこもり」となってしまい、周りからの情報・刺激に反応できなくなったり、遮断してしまったりするのだと思います。また、自信が無いけどプライドは傷つけられたくないと感じると、外向きに攻撃性が強く働いて、切れやすくなったり、他人を傷つけたり、犯罪に走ったりするのだと思います。これも周りからの情報・刺激に過剰反応しているのだと思います。
もしかしたら、実力が無いのに自信過剰の人も、実は「自信」が無いので過剰に認められたいと思っていて、知らない間に虚勢を張っているのでしょうか?
「小さな自信」が沢山貯まっている人は、「心的エネルギー」が満ちてる人だと思います。
「心的エネルギー」満ちているからこそ、他人にも良い影響を与えることも出来るのだと思います。本当の意味での「自信」を持って、他人も良い影響を与えれる人が、「自信と勇気と行動力を持った人間」と言えるのでは無いでしょうか。
2021-10-23 相談「頑張りすぎない」
2021-10-23 相談「頑張りすぎない」
「仕事で ”自分がやらなければ!!” と頑張りすぎて体調を崩してしまった」
「母が体調を崩して、その介護が大変、父も気弱になって自分を頼りにしてきて」
2件続けて自分自身を自分で追い詰めてしまって苦しんでいるという話しを聞きました。
相談にのると言うより、話しを傾聴した。と行った方が正しいかもしれません。的確なアドバイスは出来ないかもしれませんが、自分だったらこうする。こう対処するという話しをしました。
それを少し文章にしてみました。(上手くまとめられたかは、自信がありませんが)
コツは「頑張りすぎない」ことだと思います。
自分には、その時、その場での「役割」があるだろうと思います。その「役割」が何であるかを考えて、その「役割」以上の事は、他の人に任せるのが良いと思います。総て自分でやってしまおうと考えないで、「役割」の範疇でベストを尽くせば良いと思います。そして、場所や立場が変化したら、その「役割」も変わると思います。あの場では、ここまでしていたから、こちらでもこれをしなければならないと考えると辛くなります。
私の場合は、職場での立場、道院での立場、家庭での役割、何々の役職での立場など、その都度、仮面を被るようなつもりで、この「役割」の時は、その「役割」として発言したり行動したりするようにしています。他から何か言われたとしても、言われているのは、この「役割」に対して言われているのだな解釈し、中の自分自身に向けられた物では無いと考えて、自分を守るようにしています。言ってみれば「役割」は自分を守るバリアみたいな物です。
オバーワーク気味な時も、この「役割」に求められているのは、ここまでで良しとして、次にかかります。一つの仕事にこだわりすぎると、次々と実行することが出来なくなってしまうからです。もう一つは、この仕事は、他に任せられると判断したら任せてしまう。自分の所に留めておかず、パスを出してしまいます。この時も「役割」を意識します。この「役割」の時には、これは避けてはいけない、これは自分でしなくてもよい、などと考えます。総てを背負い込む必要はありません。
2021-10-21 法話「昇級・昇格考試で考試員は何を評定している?」
2021-10-21 法話「昇級・昇格考試で考試員は何を評定している?」
対象:年長、小学生、中学生、一般
今度の土曜日に少年4級の昇級試験がありますね!
今日は、昇級試験に向けての練習を中心に行いますので、皆さんもお付き合いお願いします。
さて、昇級・昇格考試の時に考試の先生は、何を見ているのでしょうか?
一つは、中学校の中間、期末テストの様に、習った学科をどれだけ覚えているかを計るために筆記試験(書く試験)を行っていますね。
二つ目は、習った技がどれだけ出来るかを技術試験で見ていますね。
筆記試験と技術試験で、どれだけ覚えているか?どれだけ技が出来るか?を見ていますが、実はもう一つ見ている物があります。
三つ目は、拳士としてふさわしいか?を見ています。少年4級なら4級拳士としてふさわしいか?初段なら初段としてふさわしいか?二段、三段となっても同じです。
試験を受けに来た拳士の立ち振る舞いや、言葉遣い、受験に対しての取り組み姿勢、真剣度など様々な角度から判断しています。拳士としてふさわしく無いと判断したら、学科や技術が良くても注意されるかもしれません。
これらは、1日や2日で何とかなる物ではありません。日頃の修練をどの様に取り組んでいるか?が重要となります。
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評定:物事の成績・質・価値・等級などを決定すること、または決定した成績のことである。 評価と意味合いが似ているが、評定は「様々な評価を総合して最終的に定めた値踏み」というニュアンスがある。
2021-10-16 瞑想できた?
2021-10-16 瞑想できた?
先日火曜日は、二人だけの修練でした。
基本練習をして、鎮魂行を行った際、少し長めに座禅を組んでみました。
長めといっても7分程度ですが、終わった後に感想を聞いてみました。
「座っていると、グワーンと回っている感覚がある」と
自分を中心に空間が回っている感覚なのだそうです。
以下は自分の感覚を書いていこうと思います。
私の場合は、座禅を組んで姿勢を正すと、自然に調息に意識が向きます。
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調息法は、背筋を伸ばし、目を軽く閉じる(瞑目)
鼻呼吸を原則とする 1吸気:静かに長く深く 2漏気:フムと少しもらす 3充気:胸腹部に充満 4呼吸:ゆっくりと細く長く吐く 5残気:三分残して止める
吸気では「精気、生命力」が体内に入ることを意識する
呼気では「自分の気力・精神力」を体中にみなぎらせ発するように意識する
調息は静止した状態ばかりではなく、技を行うなど動いている状態でも消息できることを目指す
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息を吸うことには、あまり意識しておらず、ゆっくり長く吐くことを意識しています。
段々長くなり30秒は吐いているような気がします。
ゆっくり呼吸していると、次に自分の周りの空間に意識が向いていきます。
道場内の様子を探るような感じでしょうか?次に道場の外はどうなっているか?
今の時期なら、「虫の音が聞こえるな」とか「風が吹いているな」など
次は、再び自分の体の中のことに意識が向きます。
「今日は腰が調子良いぞ」「頭の位置は?」「手の組み方はどうか?」など
集中していくと、内に意識が向いたときは、より細かく深く体中を探索する感じとなり、外に意識が向いたときは、より遠くに宇宙にまで意識を飛ばす感じが理想でしょうか。
本当に集中すると、5分ぐらい経過したかなと思って目を開くと、20分ぐらい経っていたなどということもありました。
瞑想の形は人それぞれで、深さも様々な様な気がします。
2021-10-5 法話 「勘について」
2021-10-5 法話 「勘について」
対象:一般
剛法の修練中に、「突きが来るか?蹴りが来るか?右か?左か? なかなか分からないんだよね」と話題が上がりました。
それに対して「勘が大事なんだよ」と声がありました。
「勘と言われても、どうやったら身につくの?」
・・・・
「勘」は、漠然としたものでは無く、経験の積み重ねによって身についてきます。
何となく物事を見ているだけでは、「勘」は働きません。物事を意識して見ることによって、少しづつ身についてくるものです。
最近は、AIが様々な所に取り入れられていますが、AIに学習させることで的確に判断が出来るようになってきます。AIに何万回、何十万回もの「問」と「答え」を入力して、その中から共通事項などを学習させ、今までにない新しい「問」を入力しても、自動的に回答してくれる様になってきます。回答の精度を上げるには、更に気の遠くなるような「問」と「答え」を入力して学習させていきます。AIがどの様な道筋で答えを導き出しているかは、AIを設計した者も分からないそうです。
「勘」も同じ様に、何故、その様に判断したのかを正確に答えることは、なかなか難しいのではないでしょうか?ただ、言えることは、意識して物事を見て、判断した知識の積み重ねが「第六感」として、いざという時に「勘」が働くのではないでしょうか?
仕事でも何でも、新人には、「勘」は働きようはありません。それは「当てずっぽう」と言われるだけです。段々経験を積んでくると、「あの人の勘は当たるぞ」などと言われるようになったりしますが、それは、その人の経験と知識の積み重ねの結果と言えるでしょう。
意識して行うか?何となく過ごすかでは、時間が経過すると、大きな違いになって現れてきます。