法話
Shorinji Kempo

失敗してもいいよ!

「失敗してもいいよ!」

拳士達には、そう呼びかけています。

前にも書いたかもしれませんが、繰り返し繰り返し、

「この道院の中では、どんなに失敗してもかまわないよ!」

「失敗するのは嫌かもしれないけど、始めて習ったりする事は、失敗して当たり前」

「一番行けないのが、やる前から、諦めてしまうこと」

「どうせできない」とか「やっても無駄」など

「チャレンジする前から諦めるのは、自分の可能性を自分で潰してしまっている」

「そんなのが、(私が)一番嫌い」

・・・・

 失敗するのは誰で嫌だし、避けたいと考えるが、失敗することを極端に恐れている人が多いような気がします。道院内では、失敗を恐れずにチャレンジして欲しいと思います。その中から小さな成功体験が得られれば最高です。できなくてもチャレンジした経験は得られます。悔しさや至らなさへの反省などです。

 失敗してもチャレンジしてみる事は、自分の可能性を信じていることになります。やれば出来るかもしれない。それがダーマを信じるという事では無いでしょうか?

 繰り返しになりますが、道院内では何度失敗しても構いません。出来るようにするのが、指導者としての自分の役割です。出来ないのであれば指導者としての私の失敗です。まだまだ精進が足りてないのでしょう。反省の日々ですね。

鎮魂行について(後編)

 

鎮魂行について後編です。

*「経典」と「教典」の違い

 金剛禅では、「経典」と書かずに「教典」と書きます。

 一般の仏教のように「経典」としないのは、釈尊の教説(経)をまとめたものばかりでは無いからです。金剛禅の「教典」は、「拳禅一如」の修行を通して「金剛禅」の目的である「自己確立」と「自他共楽」の「理想境」実現に向かうために開祖が定めた規範、教えです。だから、教えが書かれた物として「教典」なのです。

*「教典」の成り立ち
 金剛禅の「教典」は、「聖句」「誓願」「礼拝詞」「道訓」「信条」から成っています。
「礼拝詞」は、“金剛禅を信じ行っていきます”という宣言となっています。
「誓願」は、修行を行っていく上での信念、誓いの言葉となっています。
「聖句」は、修行実践の原則となり、開祖が仏教経典の「法句経」から金剛禅の修行に相応しいものを選んだものです。
「信条」は、日々の生活の中での実践の大要を示し、「道訓」は、その具体的な内容を指示したものです。
 
*鎮魂行を行う意味合い
 金剛禅の教えは、道院の中だけでは無く、日常生活の中に活かしてこそ、実践していると言えると思います。毎回の修練の際に「鎮魂行」で「教典」を皆で唱和し、挫けそうになる自分を奮い立たせ、「自己確立」と「自他共楽」の平和で豊かな「理想境」実現に向けて自己を修め、皆で実践していく誓いを立てています。

鎮魂行について(前編)

少林寺拳法の修練時に鎮魂行を行っています。

鎮魂行を行うのには、どんな意味があるのでしょうか?

*修行の中での鎮魂行の位置づけ

 金剛禅の修行は身心一如です。人間の肉体と精神は別々のように見えても、別々では無く、一つものです。つまり肉体だけを鍛錬しても真の人格は完成しないし、肉体を無視した精神修養だけでは、真の安心は得られないという事です。

 そこで、金剛禅では、少林寺拳法(易筋行)を主たる「行」として修養し、健康な肉体と、健全な精神とのバランスのとれた自己の確立を目指しています。

 そして、少林寺拳法(易筋行)の修練とともに必ず行う事になっている大切な修行の一つとしてと「鎮魂行」があります。

*鎮魂行で唱和する効果について

 「鎮魂行」は、座禅を行いながら、金剛禅の「教典」にある教えを皆と共に唱和し、人としての在り方や修行の心得を自分自身に説き聞かせて身心を整えていきます。ここでポイントになるのが、皆で唱和することです。声に出して音読していく事は、目、耳、口を動かします。声が合わさり響き合うことで、体に染みこんでいくような感覚になります。さらに自分に言い聞かせるだけでなく、そこに居る皆が、お互いに確かめ合い、同じ目的に向かっている仲間としての結びつきが強くなるように思います。

*鎮魂の意味など

「鎮魂行」の「鎮魂」は、“亡くなった方の魂を鎮める”意味では無く、“自己の魂を鎮める”すなわち心を修め整えるという意味です。

後半に続く・・・

2022-5-12 開祖忌法要での法話

 

開祖忌法要で法話をしました。

 今日(2022-5-12)は、開祖の命日にあたります。開祖の命日に近い日に全国の道院では、開祖忌法要を執り行っています。本山でも今度の日曜日(2022-5-15)に開祖忌法要が予定されています。開祖忌法要は、開祖を偲び、改めて少林寺拳法を修行し、金剛禅を精進していくことを誓う日でもあります。

 開祖は、第二次世界大戦後、満州から苦労して日本に帰国し、返ってきた日本ではまだ敗戦間もない時期でもあったため、大変混乱した時代でした。開祖は、「このままでは日本はダメになってしまう」「日本をよくしていくためには、指導者となる人を育てる以外に無いと思い、少林寺拳法を創始し、この道を展開し始めました」

 開祖の志は、良い指導者を育て世の中を良い方に変革していくことです。亡くなる直前まで開祖は、ボヤボヤしていると再び日本が戦争に巻き込まれてしまうと心配していました。それを防ぐためには、自分の頭で考えて行動することを説いていました。

 最近では、ウクライナにロシアが侵攻して戦争状態になっていますよね。ロシアの指導者が戦争に行ってこいと命令を出したら、ロシアの若者は拒否することはできませんよね。ウクライナもロシアが攻めてきたら抵抗しますよね。指導者が戦争すると命令を出したら、周りの皆が巻き込まれてしまいます。兵士だけではありません。大人も子供関係ありません。我々も物の値段が上がったり、少なからず影響を受けています。

 日本も、もしかしたら戦争に巻き込まれるかもしれません。先日も北朝鮮がミサイルを発射したと報道がありましたね。中国が台湾に攻め込んだら、確実に日本は巻き込まれるでしょうね。そうならないためには、やはり自分の頭で考えて、例えば投票に行って正しい指導者を選ぶ事が大切になったりします。

 少し難しい話しになってしまいましたが、開祖がこんな事を考えて少林寺拳法を創始したんだよ!という話しをしてみました。

神道(しんとう)の葬儀(葬場祭:そうじょうさい)に参加する機会がありました

先日、神道(しんとう)の葬儀(葬場祭:そうじょうさい)に参加する機会がありました。

神社が、神道(しんとう)ですね。日本古来の宗教で日本の生活や文化、思想に根ざした物です。

仏教は、聖徳太子が飛鳥時代に日本をまとめるために輸入した渡来の宗教です。仏教も日本の生活や文化、思想に深く影響を与えています。

葬場祭では、数珠(じゅず)は必要ありませんでした。数珠は仏教ですね。

故人の魂を霊璽(れいじ:仏教での位牌にあたる)に移す儀式があるのですが、部屋の灯りを消して、暗い中で棺に霊璽をかざして「お〜〜〜」と声をかけると、魂が霊璽に入のだそうです。「お〜〜〜」で少し驚きました。

お香もありませんでした。お香やお線香も仏教ですね。その代わりに玉串(たまぐし)を捧げました。二礼し、しのび手(音を立てない拍手)を二拍打ち、一礼が作法のようです。

お経もありません。お経も仏教ですね。その代わり?に、祭詞(さいし)の奏上(そうじょう)がありました。内容を聞いていると、故人の略歴、業績、人柄などを述べていました。最後に、故人の霊が守護神となって、遺族を守るようにと祈っていました。

故人を偲ぶ気持ちは、神道であろうと仏教や、キリスト教の葬儀であろうと代わらないのかも知れないなと思いました。

2022-4-16 入門式での法話

2022年4月16日(土)能登七尾道院入門式を行いました。
 
 

入門式での法話

先程、「やくそく」をしてもらいました。

これらの約束は、先生とした約束ではありません。神様と約束した訳でもありません。

この約束は、自分自身と約束したのです。

約束を破るかどうか?は、自分自身です。約束を破ったからと言って、先生が困るわけではありません。神様が困ることもありません。自分自身が困るのです。

ただ、人間は弱いので、必ずしも約束を守れるかは分かりません。なので、守れていないときは、皆さんに代わって、先生が、注意をするかもしれません。「約束、守れていないよ」と

そんな時は、思い出して直して下さいね。

もう一つ、入門式の時には、必ずこの話をしているのですが、先生が読んだ「表白文」の中に「小錬せば、小成し、大錬せば、大成す」と言う言葉がありました。

これは、「やるか?やらないか?は皆さん次第ですよ」という事です。一生懸命に行った事は自分自身に身につきます。他人がやった事は、残念ながら自分の身にはつきません。

同じやるなら、頑張って取り組んで下さいね。

<毎回、この様な内容の話しをしています。これは、入門者だけでなく、拳士に向けても、保護者の方に向けても話しをしています。>

2022-3-12 法話 「何のために少林寺拳法を修行するのか」

2022-3-12 法話 「何のために少林寺拳法を修行するのか」

対象:小学生、一般

「何のために少林寺拳法を修行するのか」と読本にあります。(少年読本 P26)

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修行の目的は、「自己確立」・「自他共楽」

<前略>

少林寺拳法を通して、自信と勇気と行動力を身につけ、慈悲心(思いやり)と正義感を持った本当に強い人間になる。頼れる自分になることを「自己確立」と言います。

そして、その強さで困っている他の人や苦しんでいる人を助けてあげられ、相手が喜ぶことを、自分の喜びに変えることができることを「自他共楽」と言います。

開祖はわかりやすく「半ばは自己の幸せを、半ばは他人(ひと)の幸せを」という言葉で説明しています。

<中略>

少林寺拳法は強い人が弱い人を助けながら、お互いが幸せに暮らせる社会をつくることを目指しているのです。

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簡単に言うと、自分の事は自分で出来るようにしていく事を「自己確立」と言います。

いつまでも、「お母さん、あれして、これして」と頼ってばかりでなくて、自分でできそうなことは自分の力でやってみる。「できないから、やらない」ではなくて、ちょっと失敗しても良いから、勇気を出してやってみることが大切になります。また、やらなければならないことは、しっかりと取り組む事も必要になります。

そして、「自他共楽」は、例えば、妹が困っていたら、少し助けてあげる。「お兄ちゃん、ありがとう」と言われたら嬉しいでしょう?自分ができる範囲でしてあげられればそれで良いのです。

ここで少し補足ですが、自分はまだまだ「自己確立」なんてできていないから、他人(ひと)の為に何かするなんてとてもできない。または、損得抜きで他人(ひと)の為に何かするなんて、偽善だ。人間なんて、自分の益の為にしか行動しないのではないか?と考えるかもしれません。

その通りかもしれません。そもそも、自分に余裕が無いときは、他人(ひと)の事を気にしている余裕はありません。しかし、自分の事ができるようになって、少し余裕がでてきたら、自分の事ばかりでなく、少し他人(ひと)の為に何かしてあげられたら良いな〜と言うくらいです。初めから完璧に他人(ひと)の為に100%行動できるはずはないと思います。自己中心的な考えだけでなく、他人(ひと)の事も少し考えて行動できる人間を目指していこうという事です。

開祖の「半ばは自己の幸せを、半ばは他人(ひと)の幸せを」と言う言葉は、この様な意味もあるのではないでしょうか?

初めから、完璧にできなくても良いのではないでしょうか?高い理想・目標に向かって、前々修学、一歩一歩、進んでいく事が大切なのではないでしょうか?

鎮魂行などで、「今日の自分は、ここができていなかったな〜」と反省すれば良いのです。

そして少し修正して、少し前進。これが修行なのではないでしょうか?

私も、偉そうに話しをしていますが、初めからこんな事を考えていたわけではありません。何年も修行してきて少しずつ考えるように成ってきただけです。

ごめんなさい。後半、少し難しい話しになってしまいました。

「先の先」は、「守主攻従」と矛盾しないのか?

「先の先」は、「守主攻従」と矛盾しないのか?

学科学習の際に出された質問です。

「先の先」は、金剛禅読本の第四編、第三章 「先について」100ページの中で説明されている。

「守主攻従」は、同じく第一編、第三章 「少林寺拳法の六つの特徴」51ページで説明されている。

 この疑問は、”少林寺拳法は、人間完成の行(ぎょう)で、人格向上を目指す道である。その精神的理由により、自分から先に仕掛けることは、原則として行うべきではない。”と書いてある一方で、”「先の先」とは、相手が技を掛けようとして、まだ掛けないうちに、機先を制して技を施して勝つ方法です。不意打ちの「先」のような形で。「先々の先」ともいわれています。”と書かれている所から出た疑問のようです。

「先(せん)」とは、少林寺拳法の技を運用する際は、相手より有利な状況になることが大切で「先」を制しなければならい。「先」には、形の面で「対の先」「後の先」「先の先」の三つがある。(三つのタイミングがある)

「対の先」は、両者が攻防の間合いを取って相対しているとき、相手が技を掛けようとしてきた場合に、相手の動きを予知して同時に動き、相手の技が有効に発揮される前に、制してしまうことである。

「後の先」は、相手が攻撃してくるのを待って、これをかわし、あるいは受けて、相手の動きを制する。

「先の先」は、上記のように、相手が技を仕掛ける前に、相手を制する形になります。

この三つのタイミングの「先」を運用するには前提条件があります。「気の先」と言われる物が大切となってきます。

「気の先」とは、相手の意図をくみ取って、相手の攻撃の意思がハッキリとした時点で、相手の動きに先んじて動くという事です。決して、こちらから仕掛けているわけでは無いと言う事が重要です。また、この「気の先」が無ければ、「後の先」や「対の先」も成立しないという事です。

 「後の先」と言っても、相手の動きを見てから、自分が動き始めていては間に合わない。相手の攻撃の意思を早くに察知して防御の態勢を取っておかなければ、護身術の技の成立はおぼつかない。

 決して、こちらから攻撃の意志を持って、先に仕掛けている訳では無いと言う事です。

 ただ、何も知らない第三者からすれば、先に仕掛けているように見えるかも知れませんね。

 2022-1-29 法話「人は必ずよく変わることができる」

 2022-1-29 法話「人は必ずよく変わることができる」

対象:小学生、一般

土曜日は、学科の日ですね。どこまで読みましたっけ?

金剛禅少年読本 8ページでしたね。

第1部「よくいきるために」 その1「”いのち”それはかけがいのないもの」第3章「人は必ずよく変わることができる ・・・人間の可能性」

・・・(金剛禅少年読本 8ページを読みました)

 誰でも変わっていきます。成長していきます。年をとっていきます。これは当たり前の事ですよね。どうせ変わっていくなら、良い方に変わっていた方が良いですよね。

 (読本8ページ)最後の方に書いてありましたが、人間は、努力によって、必ずよく変わることができます。自分で変われると信じて努力していくことが大切です。チャレンジする前に「どうせできないから」と諦めてしまわずに、ほんの少し勇気をだしてチャレンジしてみて下さい。

 自分を良いように変えていけるのは、自分自身です。誰かが勝手にやってくれるなどという事はありません。両親や先生、大人の人達は、助けてくれたり、こうした方が良いよとアドバイスをしてくれると思いますが、実際に「やるか、やらないか」は、自分自身です。他の人が代われる訳ではありません。

 皆さんは、少林寺拳法をやっています。これは、すでに「自分は良い方向に変われるのだ」と信じているからではないですか?やっても、やらなくても変わらないのなら、初めからやりませんよね。他のことをした方が良いですよね。せっかく少林寺拳法を始めたのですから、「自分は良い方向に変われる」と信じて努力してみても良いのではないでしょうか?

 前にも話しをしましたが、道場では、どれだけ失敗しても構いません。いっぺんにできる人はいません。ほんの少し勇気を持ってチャレンジして、自分自身を良い方向に変える努力を一緒にしていきましょう。

2022-1-20 法話「謝る勇気、叱る勇気」

2022-1-20 法話「謝る勇気、叱る勇気」

対象:年長、小学生、中学生、一般

 誰でも間違ったことをしてしまったり、失敗してしまったりして、他人に迷惑をかけてしまうことがあります。こんな時は、素直に謝れますか?

 「ごめんなさい」と言うには、けっこう勇気が必要だったりします。素直に自分の非を認めて謝れるのは、自分に対して自信があるかなのではないかと思ったりします。

 自分は今回、失敗してしまったかもしれないけれど、それを直すことができると言う自信があり、行動に移していける。

 自信が無いと、現在の自分を取り繕う為に言い訳をしたり、自分の非を認められなかったりするかもしれません。間違いや失敗を認めてしまうと、今の自分を否定されたように感じてしまい、「ごめんなさい」とは言えないのかもしれません。

 表面的に言葉だけ「ごめんなさい」と言うのとは、違うのですよ。本当に心から「ごめんなさい」と謝罪をして、反省して行動を変えることができるか?という事です。

 また、実は、他人の間違いを指摘したり、叱ったりする方も勇気が必要だったりします。

 「こんなこと言ったら」どう思われるだろう?と考えたり、本当に正しい事を言っているのだろうかと疑問に思ってしまったり、自分の発言に自信が無いと、勇気を振り絞って叱る事もできません。

 謝るにも叱るにも、自信が無いと、勇気を持って行動することはできないと思います。