法話
Shorinji Kempo

2022-5-12 開祖忌法要での法話

 

開祖忌法要で法話をしました。

 今日(2022-5-12)は、開祖の命日にあたります。開祖の命日に近い日に全国の道院では、開祖忌法要を執り行っています。本山でも今度の日曜日(2022-5-15)に開祖忌法要が予定されています。開祖忌法要は、開祖を偲び、改めて少林寺拳法を修行し、金剛禅を精進していくことを誓う日でもあります。

 開祖は、第二次世界大戦後、満州から苦労して日本に帰国し、返ってきた日本ではまだ敗戦間もない時期でもあったため、大変混乱した時代でした。開祖は、「このままでは日本はダメになってしまう」「日本をよくしていくためには、指導者となる人を育てる以外に無いと思い、少林寺拳法を創始し、この道を展開し始めました」

 開祖の志は、良い指導者を育て世の中を良い方に変革していくことです。亡くなる直前まで開祖は、ボヤボヤしていると再び日本が戦争に巻き込まれてしまうと心配していました。それを防ぐためには、自分の頭で考えて行動することを説いていました。

 最近では、ウクライナにロシアが侵攻して戦争状態になっていますよね。ロシアの指導者が戦争に行ってこいと命令を出したら、ロシアの若者は拒否することはできませんよね。ウクライナもロシアが攻めてきたら抵抗しますよね。指導者が戦争すると命令を出したら、周りの皆が巻き込まれてしまいます。兵士だけではありません。大人も子供関係ありません。我々も物の値段が上がったり、少なからず影響を受けています。

 日本も、もしかしたら戦争に巻き込まれるかもしれません。先日も北朝鮮がミサイルを発射したと報道がありましたね。中国が台湾に攻め込んだら、確実に日本は巻き込まれるでしょうね。そうならないためには、やはり自分の頭で考えて、例えば投票に行って正しい指導者を選ぶ事が大切になったりします。

 少し難しい話しになってしまいましたが、開祖がこんな事を考えて少林寺拳法を創始したんだよ!という話しをしてみました。

神道(しんとう)の葬儀(葬場祭:そうじょうさい)に参加する機会がありました

先日、神道(しんとう)の葬儀(葬場祭:そうじょうさい)に参加する機会がありました。

神社が、神道(しんとう)ですね。日本古来の宗教で日本の生活や文化、思想に根ざした物です。

仏教は、聖徳太子が飛鳥時代に日本をまとめるために輸入した渡来の宗教です。仏教も日本の生活や文化、思想に深く影響を与えています。

葬場祭では、数珠(じゅず)は必要ありませんでした。数珠は仏教ですね。

故人の魂を霊璽(れいじ:仏教での位牌にあたる)に移す儀式があるのですが、部屋の灯りを消して、暗い中で棺に霊璽をかざして「お〜〜〜」と声をかけると、魂が霊璽に入のだそうです。「お〜〜〜」で少し驚きました。

お香もありませんでした。お香やお線香も仏教ですね。その代わりに玉串(たまぐし)を捧げました。二礼し、しのび手(音を立てない拍手)を二拍打ち、一礼が作法のようです。

お経もありません。お経も仏教ですね。その代わり?に、祭詞(さいし)の奏上(そうじょう)がありました。内容を聞いていると、故人の略歴、業績、人柄などを述べていました。最後に、故人の霊が守護神となって、遺族を守るようにと祈っていました。

故人を偲ぶ気持ちは、神道であろうと仏教や、キリスト教の葬儀であろうと代わらないのかも知れないなと思いました。

2022-4-16 入門式での法話

2022年4月16日(土)能登七尾道院入門式を行いました。
 
 

入門式での法話

先程、「やくそく」をしてもらいました。

これらの約束は、先生とした約束ではありません。神様と約束した訳でもありません。

この約束は、自分自身と約束したのです。

約束を破るかどうか?は、自分自身です。約束を破ったからと言って、先生が困るわけではありません。神様が困ることもありません。自分自身が困るのです。

ただ、人間は弱いので、必ずしも約束を守れるかは分かりません。なので、守れていないときは、皆さんに代わって、先生が、注意をするかもしれません。「約束、守れていないよ」と

そんな時は、思い出して直して下さいね。

もう一つ、入門式の時には、必ずこの話をしているのですが、先生が読んだ「表白文」の中に「小錬せば、小成し、大錬せば、大成す」と言う言葉がありました。

これは、「やるか?やらないか?は皆さん次第ですよ」という事です。一生懸命に行った事は自分自身に身につきます。他人がやった事は、残念ながら自分の身にはつきません。

同じやるなら、頑張って取り組んで下さいね。

<毎回、この様な内容の話しをしています。これは、入門者だけでなく、拳士に向けても、保護者の方に向けても話しをしています。>

2022-3-12 法話 「何のために少林寺拳法を修行するのか」

2022-3-12 法話 「何のために少林寺拳法を修行するのか」

対象:小学生、一般

「何のために少林寺拳法を修行するのか」と読本にあります。(少年読本 P26)

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修行の目的は、「自己確立」・「自他共楽」

<前略>

少林寺拳法を通して、自信と勇気と行動力を身につけ、慈悲心(思いやり)と正義感を持った本当に強い人間になる。頼れる自分になることを「自己確立」と言います。

そして、その強さで困っている他の人や苦しんでいる人を助けてあげられ、相手が喜ぶことを、自分の喜びに変えることができることを「自他共楽」と言います。

開祖はわかりやすく「半ばは自己の幸せを、半ばは他人(ひと)の幸せを」という言葉で説明しています。

<中略>

少林寺拳法は強い人が弱い人を助けながら、お互いが幸せに暮らせる社会をつくることを目指しているのです。

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簡単に言うと、自分の事は自分で出来るようにしていく事を「自己確立」と言います。

いつまでも、「お母さん、あれして、これして」と頼ってばかりでなくて、自分でできそうなことは自分の力でやってみる。「できないから、やらない」ではなくて、ちょっと失敗しても良いから、勇気を出してやってみることが大切になります。また、やらなければならないことは、しっかりと取り組む事も必要になります。

そして、「自他共楽」は、例えば、妹が困っていたら、少し助けてあげる。「お兄ちゃん、ありがとう」と言われたら嬉しいでしょう?自分ができる範囲でしてあげられればそれで良いのです。

ここで少し補足ですが、自分はまだまだ「自己確立」なんてできていないから、他人(ひと)の為に何かするなんてとてもできない。または、損得抜きで他人(ひと)の為に何かするなんて、偽善だ。人間なんて、自分の益の為にしか行動しないのではないか?と考えるかもしれません。

その通りかもしれません。そもそも、自分に余裕が無いときは、他人(ひと)の事を気にしている余裕はありません。しかし、自分の事ができるようになって、少し余裕がでてきたら、自分の事ばかりでなく、少し他人(ひと)の為に何かしてあげられたら良いな〜と言うくらいです。初めから完璧に他人(ひと)の為に100%行動できるはずはないと思います。自己中心的な考えだけでなく、他人(ひと)の事も少し考えて行動できる人間を目指していこうという事です。

開祖の「半ばは自己の幸せを、半ばは他人(ひと)の幸せを」と言う言葉は、この様な意味もあるのではないでしょうか?

初めから、完璧にできなくても良いのではないでしょうか?高い理想・目標に向かって、前々修学、一歩一歩、進んでいく事が大切なのではないでしょうか?

鎮魂行などで、「今日の自分は、ここができていなかったな〜」と反省すれば良いのです。

そして少し修正して、少し前進。これが修行なのではないでしょうか?

私も、偉そうに話しをしていますが、初めからこんな事を考えていたわけではありません。何年も修行してきて少しずつ考えるように成ってきただけです。

ごめんなさい。後半、少し難しい話しになってしまいました。

「先の先」は、「守主攻従」と矛盾しないのか?

「先の先」は、「守主攻従」と矛盾しないのか?

学科学習の際に出された質問です。

「先の先」は、金剛禅読本の第四編、第三章 「先について」100ページの中で説明されている。

「守主攻従」は、同じく第一編、第三章 「少林寺拳法の六つの特徴」51ページで説明されている。

 この疑問は、”少林寺拳法は、人間完成の行(ぎょう)で、人格向上を目指す道である。その精神的理由により、自分から先に仕掛けることは、原則として行うべきではない。”と書いてある一方で、”「先の先」とは、相手が技を掛けようとして、まだ掛けないうちに、機先を制して技を施して勝つ方法です。不意打ちの「先」のような形で。「先々の先」ともいわれています。”と書かれている所から出た疑問のようです。

「先(せん)」とは、少林寺拳法の技を運用する際は、相手より有利な状況になることが大切で「先」を制しなければならい。「先」には、形の面で「対の先」「後の先」「先の先」の三つがある。(三つのタイミングがある)

「対の先」は、両者が攻防の間合いを取って相対しているとき、相手が技を掛けようとしてきた場合に、相手の動きを予知して同時に動き、相手の技が有効に発揮される前に、制してしまうことである。

「後の先」は、相手が攻撃してくるのを待って、これをかわし、あるいは受けて、相手の動きを制する。

「先の先」は、上記のように、相手が技を仕掛ける前に、相手を制する形になります。

この三つのタイミングの「先」を運用するには前提条件があります。「気の先」と言われる物が大切となってきます。

「気の先」とは、相手の意図をくみ取って、相手の攻撃の意思がハッキリとした時点で、相手の動きに先んじて動くという事です。決して、こちらから仕掛けているわけでは無いと言う事が重要です。また、この「気の先」が無ければ、「後の先」や「対の先」も成立しないという事です。

 「後の先」と言っても、相手の動きを見てから、自分が動き始めていては間に合わない。相手の攻撃の意思を早くに察知して防御の態勢を取っておかなければ、護身術の技の成立はおぼつかない。

 決して、こちらから攻撃の意志を持って、先に仕掛けている訳では無いと言う事です。

 ただ、何も知らない第三者からすれば、先に仕掛けているように見えるかも知れませんね。

 2022-1-29 法話「人は必ずよく変わることができる」

 2022-1-29 法話「人は必ずよく変わることができる」

対象:小学生、一般

土曜日は、学科の日ですね。どこまで読みましたっけ?

金剛禅少年読本 8ページでしたね。

第1部「よくいきるために」 その1「”いのち”それはかけがいのないもの」第3章「人は必ずよく変わることができる ・・・人間の可能性」

・・・(金剛禅少年読本 8ページを読みました)

 誰でも変わっていきます。成長していきます。年をとっていきます。これは当たり前の事ですよね。どうせ変わっていくなら、良い方に変わっていた方が良いですよね。

 (読本8ページ)最後の方に書いてありましたが、人間は、努力によって、必ずよく変わることができます。自分で変われると信じて努力していくことが大切です。チャレンジする前に「どうせできないから」と諦めてしまわずに、ほんの少し勇気をだしてチャレンジしてみて下さい。

 自分を良いように変えていけるのは、自分自身です。誰かが勝手にやってくれるなどという事はありません。両親や先生、大人の人達は、助けてくれたり、こうした方が良いよとアドバイスをしてくれると思いますが、実際に「やるか、やらないか」は、自分自身です。他の人が代われる訳ではありません。

 皆さんは、少林寺拳法をやっています。これは、すでに「自分は良い方向に変われるのだ」と信じているからではないですか?やっても、やらなくても変わらないのなら、初めからやりませんよね。他のことをした方が良いですよね。せっかく少林寺拳法を始めたのですから、「自分は良い方向に変われる」と信じて努力してみても良いのではないでしょうか?

 前にも話しをしましたが、道場では、どれだけ失敗しても構いません。いっぺんにできる人はいません。ほんの少し勇気を持ってチャレンジして、自分自身を良い方向に変える努力を一緒にしていきましょう。

2022-1-20 法話「謝る勇気、叱る勇気」

2022-1-20 法話「謝る勇気、叱る勇気」

対象:年長、小学生、中学生、一般

 誰でも間違ったことをしてしまったり、失敗してしまったりして、他人に迷惑をかけてしまうことがあります。こんな時は、素直に謝れますか?

 「ごめんなさい」と言うには、けっこう勇気が必要だったりします。素直に自分の非を認めて謝れるのは、自分に対して自信があるかなのではないかと思ったりします。

 自分は今回、失敗してしまったかもしれないけれど、それを直すことができると言う自信があり、行動に移していける。

 自信が無いと、現在の自分を取り繕う為に言い訳をしたり、自分の非を認められなかったりするかもしれません。間違いや失敗を認めてしまうと、今の自分を否定されたように感じてしまい、「ごめんなさい」とは言えないのかもしれません。

 表面的に言葉だけ「ごめんなさい」と言うのとは、違うのですよ。本当に心から「ごめんなさい」と謝罪をして、反省して行動を変えることができるか?という事です。

 また、実は、他人の間違いを指摘したり、叱ったりする方も勇気が必要だったりします。

 「こんなこと言ったら」どう思われるだろう?と考えたり、本当に正しい事を言っているのだろうかと疑問に思ってしまったり、自分の発言に自信が無いと、勇気を振り絞って叱る事もできません。

 謝るにも叱るにも、自信が無いと、勇気を持って行動することはできないと思います。

2022-1-1 謹賀新年

2022-1-1 謹賀新年

暁(あかつき)、東雲(しののめ)、曙(あけぼの)、鶏旦(けいたん)

総て、夜明けを指す言葉です。
暁(あかつき)は、日の出前の暗がりが少し明るくなってきた頃
東雲(しののめ)は、朝日が昇ってくる頃
曙(あけぼの)は、朝日が昇った直後の頃
鶏旦(けいたん)は、鶏の鳴く頃、もう一つのは、元旦の朝という意味です。
夜明けを意味する良い言葉は無いかと調べていたら出てきました。
一つに絞れなかったので、全部書いてみました。
コロナ禍で先の見えない時が続いていますが、2022年は朝日が射し、明るさが見える年になれば良いな、と思います。

2021-12-25 法話 「今年を振り返って」

2021-12-25 法話 「今年を振り返って」

今年最後の修練日です。

皆さんには、大掃除を行ってもらいました。

いつもの作務より少し丁寧に行ってもらいました。

窓も拭いてもらいました。ありがとうございます。

 

さて、今年のお正月に書き初めで「禍転じて福と成す」と書きました。

去年、今年とコロナ禍に振り回され過ぎていったように思います。

その中でも、この1年で何か新たな変化やチャレンジはあったでしょうか?

昇級試験にチャレンジして昇級した人もいましたね!

私は、この春に「少法師」を拝命しました。

まだ十分にその責を果たせているか?自信はありませんが、頑張って行きたいと思います。

本来なら、七段にも挑戦したかったのですが、職業柄、県外移動は制限されていますから、本山まで受験しに行くことは出来ませんでした。世の中が落ち着いたら、是非、挑戦したいと考えています。

今年一年、ありがとうございました。来年も皆さんと頑張って行きたいと思います。

来年1月6日(木)から修練はスタートです。

1月8日(土)の修練は、1月9日(日)に振り替えて、能登地区の新春法会を行いたいと思います。14時からで他の道院・支部からも、ここ(能登七尾道院)に集まってもらいます。

ぜんざい会食は出来ませんが、初稽古、書き初めもしたいと思っています。

参加賞も準備します。

皆さん、参加して下さいね。

2021-12-16 法話「失敗してもよい場所」

2021-12-16 法話「失敗してもよい場所」

対象:年長、小学生、中学生、一般

失敗するのは、誰でも嫌ですよね!

失敗するより、失敗しない方が、そりゃ、良いに決まっています。

しかし、どんなに失敗したくないと思って、失敗しないように気を付けていたとしても、自分の思い通りにはいかないので、失敗するときは失敗してしまいます。

でも、失敗も悪い事ばかりでは無いかもしれませんよ!

失敗しても、それを経験として活かして、次に繋げていけば行けば良いのです。始めてで、直ぐに出来るようになる人なんてほとんどいません。失敗しながら少しづつ上手くなっていくものだと思います。

そして、その失敗をしても良い場所が、ここ道院です。

先生は、技が出来なかったから、上手くできなかったからといって、「何で失敗したんだ!」などと叱ったことは無いでしょ! ここ(道院)では、どれだけ失敗しても良いのです。失敗したら、「何でなんだろうと?」と先生と一緒に考えれば良いのです。その為のアドバイスをするのが先生の役目です。

失敗しながら、先生と一緒に段々と上手くなっていきましょう!

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〜考察〜

最近感じるのですが、極端に失敗を恐れている人が増えているように思います。

失敗して、他人に怒られることを避けたがるのでしょうか?

挫折感を味わいたくないと思っているのでしょうか?

プライドが傷つくことを恐れているのでしょうか?

一度、失敗すると、それで終わりだと絶望感を感じるのでしょうか?

いずれにしても、一度や二度、失敗しても自分は大丈夫だという自信が少ないのではないかと思います。

成功体験は自信を付けるには良いと思いますが、失敗を乗り越えた体験も自信になるのではないかと思います。問題は、安心して失敗できる場所があるかどうか?なのかもしれません。